誰もが皆、同じように生きているわけではない。同じように幸せでも、同じように不幸せでもない。皆が同じように得ているわけでも、失うわけでもない。変化がある人もいる。変化がない人もいる。笑顔でいられる人もいれば、涙を流し続ける人もいる。

忘れてはいけないこと。覚えておくべきこと。

「京都に面白いおみくじがあるよ」と教えてくれる人がいました。「待ち人」の欄に「待ち人は忙しくしているから出会えない」とあったそう。

「出会えないんよね」と肩を落としていたけれど、この表現は色んな捉え方ができると思いました。

「出会えない」とあるのなら、待ち人が忙しくなくなったら「出会える」ってことなんじゃないかな、とか。

ということは、「待ち人はいる」ってことなのかも?とか。

理由は何であれ、忙しくしている人はこの世に沢山いるのだから、おみくじを引いた本人が気づいていないだけで、実は待ち人は周りに沢山いるんじゃないかな、とか。

私自身が忙しくしているときに、この「待ち人」の言葉を思い出せたら良いなとも思いました。忙しくしている自分が、もしかしたら誰かの「待ち人」になっていることがあるかもしれない。逆の立場もあるだろう、と。

なかなか都合の良い解釈だけど、のんびり顔の待ち人に出会ってみたいな。

なんどでも ひかりはうまれ もういちど 春の横断歩道で出会う ( 伴風花 )

 

 

 

 

代わりになるものが無いから、あいた空間を埋められない。そもそも埋め合わせたい気持ちが無い。

新しく見つけたり作ったりしたとしても、「はい、もうそれで良いですね。おしまい」とはならない。

どうしたら良いのか分からないまま、時間だけが過ぎていく。

一日が一秒のよう。のたりのたり。

特別扱いされるときの、あのふわふわした感覚を覚えてしまうと、中立であることが難しくなる。

根拠のない優越感に一度でも浸れば、自分がただの何千何万分の一であることを忘れてしまう。

高いところから見下ろすような、そんな自分の立ち位置の温かさのために、他人を傷つけても平気でいられる。

痛みを知り、身をもって気がつけた数々に栞をはさむ。

「個性」も群れれば、ただの「群れ」でしかないなあ。ぼんやり浮かんだ。

群れから弾かれてから後、自分のことを「ひとり」と思うことはあっても、「個性」という自覚を持ったことは無かった。でも「ひとり」と「個性」は何となく意味するところが似ているようにも思う。

過去に思いを巡らせて、ふと気づく。「個性」が群れたら、ただの「群れ」。ならば、逆は言えるのか。群れから離れたそのものを「個性」と呼ぶことはできるの?と。

「ひとり」が「個性」と同義なら…と考えてみたけど、寂しくなりそうなので今日はここでお終い。本当に一人にならないと深く理解できないことが沢山ある。思い出す、涙が出た。

電線に留まる鳩に「なんでわざわざあんな不安定な場所にいたがるんやろうな」と思う。

「なんでわざわざそんなやり方を」と笑われる自分を思い出した。私は鳩、なのか。

何かに悩んで、悩みぬいても答えが引き出せず、「自分の好きにやれば良い」に寄りかかる人は多いと思う。私自身も、どうしようもなくなると、一休みしてそういった考え方に頼りながら考え直すことがよくある。

でも、この「好きなものは好き、だから仕方ない」という捉え方は、結局のところ、自分のことを好きすぎるあまり、他人への気配りも無いまま自身のわがままを通そうとする気持ちの現れでもある。

口当たりの良い、響きのよい表現にも、少なからず裏の意味がある。

出来上がった作品を手にしたとき、懐かしい気持ちになった。

小学生の頃から今までずっと慣れ親しんだ本のかたち、文庫本と同じサイズだから親しみを感じたのだと思う。

「四月と三月」 #001 http://yagikahori.wix.com/photography#!blank-1/nlqod

 

 

人がちゃんと写っていなくても、「誰かと一緒にいる」ことを表すような何かを写したがる、それを見せたがる。その気持ちの底には、どんな感情が横たわっているんだろう。誰かと一緒にいることを「誰かに見せたい」と思うのは、なぜ?

芸能人が私生活を見せるときのようなそんな行為を、何でもない一般人が物真似をしているように見えてしまう。誰もそれを求めていないし、仕事でも義務でもないのに、プライベートを公にする不思議な現象。

「見せるのはここまで」という線引きは、「でもこれは見てもらいたい」との葛藤。見せたら「いいね」って言ってもらえる…みたいな「欲」との闘いみたいなところもあるのだろう。

何でもない平凡な日々を無理に特別扱いしなくて良いと思う。「平凡だな」と思ったら、そう思ったところでお終いにして良いときもある。

真実を自分の都合よく歪めず、ありのまま受け止める。下手に演出しなくても、「そのままで結構です」と笑顔でさらっとカメラを構えたい。

撮り方の問題以前に、物の見方や捉え方の問題なのだと思う。思想は目に見える形で現れることがある、そのうちの一つが写真なんだろうなあ。

顔の前に花束をあてがって撮影するのが流行っている、ように見える。何枚も同じ写真を見せられている、ような気がする。意地悪でなく、本音。

傘を借りて外に出たら、雨が上がった。「そこは降るところでしょ」と空を眺めながら帰る。

玄関の鍵を開けようとしたところでポツリ。「そんなオチ、いらんなあ」とひとり笑う。

生きているなら必ず死は訪れるものだし、死ぬのは生きていた証しだし。どのように生きても、どんな死に方をしても、「生きる」と「死ぬ」の二つは誰にでも平等にある。平等にあるし、ゆるがないし、人の手ではどうしようもない。命をのばすことはできても、最後に死ぬのは誰でも同じ。

​それなのに、「だけど」と続きを考えたくなるのはなぜだろう。

「ここにいたらペシャンコになるよ」って場所に蛙がいたので、捕まえて、近くの池まで連れていく。蛙に触ったの、久しぶり。可愛くて、ついつい眺めてしまう。私の手の中で「いやー」って体をねじらせてばかりだったけど。

何年も前のこと、小さな亀の赤ちゃんを見かけたことがある。これまた「そんな所にいたらペシャンコになるよ」って場所にじっとしていたので、拾い上げて池に放した。

池のほとりを歩いていて、亀の甲羅干しを見かけるたびに、「あの時の亀、あれかな」などと勝手に思いを巡らせる。今でも元気だったらいいな、とか。

亀の恩返しは、さほど期待してない。さほど、ね。

朝、ずっと遠くから聞こえてきました。今年初の蝉の声、7月13日。

 

求められた時には「写真家」と名乗っても良いのだろうか、わたし。

名乗って良い基準が正直よく分からない。いっそ「写真家と名乗ってもいいですよ」検定とかあったら、面倒くさくなくて良いのにな。そんな検定あっても、受けないけど。たぶん。

とりあえず、提出する書類に「写真家」と書き込んだ。「いいのかな」と思いながら。

ウェブ上に写真や書き物を公にするようになったのは、今から18年前のこと。ホームページに文章を公開するようになり、挿絵代わりに写真を載せていたことから次第に内容が文章から写真へシフトしていきました。デジタルカメラを手にしてからは、撮ることも見せることもハードルが低くなっていきました。

いま振り返って感じるのは、当時の自分は「やりたい放題」だったんじゃないか…ということ。人に何かを「見せる」行為を甘く捉えていたようにも思います。見せられる側の気持ちを考えることがなく、ただ自分が見せたいものを見せて気持ち良くなる、の繰り返し。自慢したい気持ちを消化したいがために、手当たり次第に見せていたような気さえします。

周りの反応に批判的なものが少なかったことで、自分の調子の良さに拍車がかかっていったようにも思います。反応の良さが気持ち良く、自分の実力の無さを自覚できていなかった。「勘違い」というものも、確かにありました。

「本当にこれを見せたいの?」と自問できるようになったのは、写真に関わる喜ばしいこと悲しいこと、色んなことを経験した結果、私自身が「見ていられない」側の立場に立ったから。「見せられる」ことによる痛みを知ることができたからかもしれません。

「どうしてこれを見てもらいたいのか」とか「見せない選択をしてみてはどうか」とか、写真選びにそぐわないような問いかけも、いまの私には大切なチェックポイントになりました。「これを見た人はどんな風に感じるだろう」と予測することは、自分の写真を客観視する訓練のようにも思います。

「見せる」と「見てもらう」の違いを考えています。「見せたい」から「見てもらいたい」へ変化する過程とか、見せないことで守られる大事なものとか、そんなことも。

内から外へ、自分のことを全く知らない人たちに写真を見てもらうこと。もっと早くからやっておけば良かったかな。物事を公平に、偏りなく捉えられる力は、写真に限らずどんなことでも必要とされること。きっと、これからのあらゆる場面でも。

実家で飼っていた犬にそっくりの柴犬を見かける。

いつもなら眺めて済ませるのに、本当にとても似ていたから、思い切って声をかけた。犬の頭を撫でながら私の口から出たのは、自分と犬との思い出話。

飼い主のおばあちゃんはにこにこしながら私の話を聴いてくれたけど、撫でられている犬は「わたし、そろそろ歩きたいです」と体を動かして意思表示。おっと、失礼。

そういえば、うちのまるちゃんは七夕生まれだったな。今頃、天の川で水遊びでもしてるかな…などと、帰り道、空を見上げながら思い描く。いぬ座って、あるのかな。そういえば。

​冬の大三角 http://zukan.kids.yahoo.co.jp/astro/winter/0015.html

「決めない」から、「わからない」から、自分たちの求めるどんな形にもなれる。いつか何かに繋がっていくかもしれない、未来のための準備体操。

草の匂いが風にのってやって来る。刈られた葉が足もとで踊る。足首がくすぐったくて声に出して笑う。ひとりでじたばたしながら笑う。とても変な人に見えてただろうな。でも、またそんな風に笑いたい。

「この人の代わりはいないんだな」と感じられる写真に出合えたことは奇跡。それくらいの言い方をしても足りない。そんなことを撮った本人に言ったことは、これまで一度もないけれど。

そういう写真に出合って、私も「自分の代わりはいないんだな」と感じられるものを撮りたいと思うようになった。他人に「この人の代わりはいないな」と感じてもらうことよりも、自分が自身のことを「私の代わりはいない」と意識するような。

そうやって始まっていくんだな、と思う。色んなことが。

何を歌ってほしい?

冗談半分に詰め寄った相手が口にしたのは「アヴェ・マリア」。

何かが生み出されようとする前に、そんな曲のタイトルを耳にするとは。偶然にしては良くできている。当の本人は何の意図もなさそうだったけど。

とっさに歌ったメロディはシューベルトのものだったけど、バッハとグノーのほうが好き。どちらにしても音が高すぎて、低い声の私には難しい歌。

アヴェ・マリア(バッハ / グノー)https://youtu.be/hyUhEjtlDLA

いつもの機材で写真を撮り終え、フィルムを巻いたら「グラマラス」体型いらっしゃいませ。使い始めがいつなのか分からない謎のインスタントフィルム。駄目もとで適当に撮ったら、像が出てきて驚く。

まき太りもインスタントも、被写体は同じ花。どちらか片方でもちゃんと撮れているので、「助かった」というのが本音です。フィルムで撮っていると何が起こるか分からない。それも楽しみ。

​「楽しみ」と思えるようになるまで時間かかったなあ。

 

窓辺の鉄線が、もうすぐお終いです。花の名前だと知らない人は「鉄でできた線状のもの」が頭に思い浮かぶのかな。

凛とした気品はなはだ高い花であるが、有毒植物だということである。とは、「俳句歳時記」の説明。格好いいじゃないか。

 

線路沿いの細い道を歩くたびに気になる花がありました。紫陽花の小さな丸い花、一つ。周りの大きな植物の陰にありながら、ぽつりと小さく咲いていました。

通るたびに花を眺めながら「いつか撮ろう」と思っていました。ずっと気になったままでいるのも気持ち悪く、「いつかって、いつ?」と窓の外を伺い、「晴れているから、” いつか " は今日」と機材を鞄に詰めて出かけました。

花はいつも通り咲いているものの、今日は運悪く、手前に自転車が置かれていました。すぐそばのお寿司屋さんの自転車、昔ながらの大きな輪っかの出前の二輪。

自転車越しに写真を撮っていると、背後からお寿司屋さんの引き戸を開ける音がしました。ガラガラ。ちょうどその時ピント合わせを終えたところだったので、そのままシャッターを切りました。すると、後ろから威勢のいい声がしました。「自転車、のけてやるよ!」と。

まさかの一言に甘え、写真を撮らせてもらいました。紫陽花のことを聞いてみたら、「挿し木をしてみたら咲いてくれたんだよ」と嬉しそうに話してくれました。

四年前の作品「とごしとわたし」で表紙に使った写真は、このお寿司屋さんの暖簾を写したものでした。「戸越」を四角くかこった緑色の暖簾です。そのことをお話したら、「三年くらいで新しく替えるから、これの一つ前のだね」とおっしゃる。戸越で写真を撮っていることを伝えると、梅を干す日をお知らせくださいました。これまた威勢よく、「そのとき来たらいいよ!」と。

風になびく暖簾の隅に「江戸前」の文字があるのを見て、「こんな身近に江戸があったのか」と訳のわからない気持ちを抱いたのでした。梅雨明けが楽しみです。

「とごし と わたし」

http://www.photoback.jp/Stage/Photoback/PBER-1978821211261718480

日常にある、もっと気楽に言えば、その辺りに転がっているような平凡なことに目を向ける。

「いつもと同じやね」と飽きてくることもあるけれど、平凡な連続に「これは?」と気づくことがあると「見ていてよかった」と思います。正確に言うと「見るの止めなくてよかった」。

特別な場所へ行くことはないし、写真を撮る時はいつも一人。日常を観察する土台を築くのには向いている環境だったのかもしれません。

積極的に後ろ向きであることは、前向きな態度なのか。時折浮かぶ難題です。ムーンウォークのようだな、といつも思います。

写真に言葉を寄せると、「言葉は無くても良い」と言われることがありました。一度や二度ではなく。「どうしたらいいかな」と悩むときはいつも、「どのように言葉とバランスをとるべきか」と考えるばかりでした。

言葉と写真を一緒にしようとするから上手くいかなくなるのでは、とこれまでとは違う視点で捉えてみたのは、つい最近のことです。

写真で伝えられることと、言葉で伝えられること。そのどちらもあって伝えられること。三つの捉え方があるようです。「ありますよ、今まで知らなかったの?」と言われそう。それでも自力では気づけませんでした。写真と言葉が同居する場を好意的に観てくれる人が私の周りには多かったから、きちんと気づけなかったのかもしれません。それはそれで幸せなことだったのかも、とも思います。

言葉で伝えられること、言葉でないと伝えられないこと。考えているうちに書き起こしたくなり、出来上がったのがこのページです。書いてみたいことが色々と思い浮かびます。楽しかったこと、面白かったこと、辛かったこと、悲しかったこと。どんな事柄もみんな同じ高さに横並びです。

「今度はこんなもの撮ってみようかな」と思い浮かべるときに似ています。懐かしい感覚です。

 

mille-feuilleは「ミルフォイユ」、フランス語で「ミル」は「千」、「フォイユ」は「葉」。

二つ合わせて「千の葉」…千葉って、なかなか良い地名だったのね。

「あんな事がありました」とか「こんな景色を見ました」とか、その一つ一つを紙に置き換えてみました。撮ってきた写真を見返したときのこと。

一枚ずつ何枚も重ねると一つの大きな層が出来上がりました。写真にうつっているもの、どれも思い出すことができます。「さすがに忘れているものが一つくらいあるだろう」と思っていたけれど、予想外にきちんと覚えている自分がいました。その写真の層を眺めているうちに、「私の頭の中って、こんなことになってるのか」と思いました。

記憶とは、見たこと感じたことで作られる「層」のようなものなのかも。そう考えて次に思い浮かべたのは、お菓子のミルフィーユでした。記憶とはミルフィーユ、記憶とは美味しいもの?

このページの名前を「みる」としたのには、この記憶の解釈と、写真と撮ることで続けてきた「見る」ことを掛け合わせてみようかな…と思いついたから。これまで見てきたこともまた、記憶の層の一部とも言えます。

見てきたこと、そこから感じたこと、良い経験、辛い経験、みんな一つの層になって私だな…とか、この手の展開、よくありますね。自分で書いてて笑ってしまった。

私のミルフィーユは苦くてしょっぱい、間違いない。お世辞にも美味しくない。これもまた人生。

 

 

​言葉が記憶の層を作っています。

書いてる人については、こちらを御覧ください。  http://yagikahori.wix.com/photography